記憶障害や脳障害の後遺症のお話

2週間ほど前、脳挫傷を起こされた騎手のお話が放送されていたのを拝見しました。
NHKだったかな?

その方は、レース中の落馬で脳に損傷をおわれ
現在も記憶障害などの後遺症に苦しんでおられるそうです。

それでも馬に乗りたいと復帰後も障害馬術というジャンルで頑張っておられるそう。
その方は、滋賀から明石の乗馬クラブに練習にこられているようで
明石の乗馬クラブには伺った事もあり、地元も近いものですから
番組を拝見しながら お力になれる機会があればなーと
とても思いました。

実は、記憶障害とは少し縁があり 実際に経験した事が何度もあります。

私の場合は、外傷があったりなどの原因があった訳ではありませんでしたが
何がわかっているのかわからないのかがわからなかったり、
自分が何を覚えていたかや忘れているのかもわからなかったり
さまざまな事で生活が非常に大変だったのを覚えています。

さっき覚えた事がわからないというのは、日常の中でもあるものですが
病的というか通常ある状態ではない健忘の場合
まるで穴が開いて時が止まったような状態で
思い出そうとしても何をどう思い出したらいいのか、
そもそも 思い出すという事がどうやったらよかったのかもわからないのです。
キーワードにたどり着くルートがわからなくてもやもやします。
キーワードになる言葉を形にする事自体も非常に時間がかかります。
その前に、思い出さなければいけないと思わない、思えない事も沢山あります。
思い出さなければと思うきっかけが 何かトラブルなどがあってや
人に指摘されて切羽詰っての事もあります。

記憶障害にも様々なケースがありますが
なんというか、まったく思い出すとか覚えていないという感覚すら忘れてしまっている時は
まだ、本人的にはそんなにその事については辛くはありません。
だって、忘れた事自体を覚えていないから。なかったと同じです。
思い出すという行動自体を覚えていないとか、その必要性を覚えていないのも同じで
本人の中に記録が無いわけですし。

ですが、それがまったく本人だけの問題であるという事は非常に少なく
生活の中での動作であったり、日常の社会の中でいる場合には必ず摩擦が起こります。
通常の状態では、病的な健忘がありませんので(語弊はありますがあえて病的と表現します)
その状態になった事のない相手には想像ができませんし、
なっている相手に対してのの対処も日常の健忘への対処となります。
しかし、本人の状態にもよりますが
まず、なぜそんなことを言われているのかがわからないし
そういわれてもその記憶を欠乏しているという事が認識できなかったり
はたまた、物事や景色としての記憶はあるけれども 体験した感覚がない事もあったり
状況把握を本人ができない事が多々あるわけです。

人は、通常自分がいるという事を意識しないで生きています。
その中で、自分が時々で必要な事を選び出し、必要な記憶を引き出して判断、行動します。
基準となる記憶は 本能的な記憶の場合も、文化的な記憶のこともあります。
「忘れてもいいこと」を適切に処理し 一時的に忘れたり、
できるだけ表に出さないようにする事もできます。

多少、何か忙しかったり生活が乱れたりなど
通常よりも力を使う(気を損失する)と
人体のコントロール能力の柔軟性が失われる為に
日常の健忘や判断ミスがあることもあります。
特には、現状を維持するために情報を破棄する場合も多々あります。

しかし、脳などに何らかの負荷(構造・機能異常を含む)がかかった場合に起こるものは、
自らの生活を円滑に行う為に忘れる事をコントロールしたものではなく
その部分へ行かなければならなかった信号が届かなかったり、他の部分に結合してしまったり
過度に多くの部分に流れてしまったり等の(その人の)通常とは違う状態のものです。

例えば Aという機能で何かを判断していたとします。
A自体がトラブルで通常の範囲の働きをできなくなった場合のほか
Aに伝えたり、Aから伝えたりする道や機能が途絶えたりすると
Aとやり取りしていた事柄が一部、あるいは全部できなくなってしまったりしますし
Aと関係をもっていた機能にも矛盾が生じてしまったりするわけでです。

「やぎさんゆうびん」という歌をご存知でしょうか?
「しろやぎさんからお手紙着いた~」というあれです。
あの歌でなぞらえていくと少しわかりやすいかもしれません。

しろやぎさんからお手紙が着きました。
くろやぎさんは読まなかった。(理由はなんでもいいです。)
くろやぎさんは、中身を知らないままです。
しろやぎさんが手紙に書いた事は伝わりません
逆に、くろやぎさんが書いたお手紙をしろやぎさんが読まなくても同じです。

この状態では、「手紙が着いたというのを知っていて読まなかった」わけなので
しろやぎさんも、くろやぎさんも「自分の意志で決める事ができた」んです。

では、配送途中で手紙を紛失したらどうでしょう?
届けたけれど本人には渡らなかった場合はどうでしょう?

手紙を届けた人がわかればたどる事はできますが
出した人が「誰に」、「いつ」、「どのように渡して」、「どう配送されたのか」よって違います。
持って行って相手の家族に渡してなくなった。渡した家族本人に聞かないとわかりません。
ゆうびんやさんに渡したのなら渡したゆうびんやさんを探して聞かなければなりません。
ポストに出したなら ポストから誰がいつだしたのか、どこにもって行き
誰にわたって その人はどのように届けたのか。
バイク便なのか、歩いて届けているのか、世界一周回ってから届くのか。

でも、実際は 大体の人が 「しろやぎさんからお手紙着いた」というのを聞いたら
無意識に「ああ、くろやぎさんが郵便に出して届けてもらったんだな」と思うはず。

それはなぜでしょう?
今の世の中の仕組みとして 「手紙を届ける = 配送業者」というルートが定番だからです。
いわゆる 常識として認識している事だからです。

では、その定番はどうしてできたのでしょうか?
誰かがそれを考えて システムやルールを作ったからです。
そして、それをその仕事に携わっている人がきちんと守るから可能なんですね。

これが日常、健康といわれている人の中で行われている事です。
決められた仕組みを決められたルールを守って行う事ができる人が100パーセントなら
あまり問題は起こりませんが そういうわけではないですよね?
たまに風邪引いてふらふらしながら仕事している人もいるし仕事嫌だからと放棄する人もいれば
うそついてわざとルールを破ろうとする人もいたりします。
明日からいきなりやった事のまったくない仕事を何のマニュアルも教えもなくやる事もあるかもしれません。
例えば、ライバル会社などが仕事を妨害する事もあるわけで全ての車をパンクさせてくれたり、
鉄道の線路を盗む事もあるかもしれません。
自然災害が来て、全て何もなくなってしまう事も考えられます。

このように、配分やシステム、ルールが欠如してしまうと
それまでできていた事をスムーズに再現するのが難しくなります。

他にも「認識の違い」等も問題になります。
先に書いた事ですが「くろやぎさんにゆうびんやさんが届けた」の常識が
Aさんは「郵便局」、Bさんは「クロネコヤマト」、Cさんは「佐川急便」だとしたら?
会社も違いますし ルートもルールも違います。
同じなのは 「相手に届くはず」という希望的観測です。

脳梗塞や脳挫傷などで脳の一部がの機能が失われた場合などにリハビリをします。
簡単いうと「決める」所と「伝わる・伝えるところ」があります。
体中のいろんなところと脳が行ったりきたりしているわけですね。
その仕組みが壊れてしまった場合(特に脳などで) 今までと同じ道はありません。
郵便局がなくなったからヤマトにするのであれば ヤマトに渡さないといけませんね。
別のルートを使えるように采配をしなければいけません。
綺麗な高速道路を走るのではなく、
道を見つけたり作るところからやらなければいけないかもしれません。

大規模災害で一つの地域がまったく機能しなくなったとしましょう。
そして、それを送った人はしらなかった。
届きませんよね?

こういう場合、まず何かを届けるのを必要だと思う人が現れないと再現されません。
送りたい、もらいたいと思わないで身の回りで都合がついたら構築されません。

次に、再現するには、少しでもそのシステムを考えたり知っている人を募り
手伝ってもいいよという人を沢山集めたり(時には無理やりやらせたり
集まった人に知っている人が教え、教えられた人が伝えないと
円滑に同じルールやスピードでシステムは再現されません。
道具を拾い集め、使えるものが無いか探し、作り、直さないといけません。
その道具を知らないなら考えて集めて新に作る事が必要です。
表面上、似たようになったとしても、やり方や通り道などは
以前と絶対同じではありません。

例えば 以前のシステムは完全にコンピューター管理でした。
でも、再現する人たちは コンピュータを使えなかった。
持っていなかった。知らなかった。忘れてしまっていた。
もう、まったく違った形です。
それでも「物を届けられるようになった」としたらAさんの目的は果たされるわけです。

このように、「失われたものを再現する為の仕組みを再度作る」、
そして、「今ある機能を最低限維持できるようにする」という目的の為に
リハビリは行われるわけですね。

ところが、これが大変です。
何もかも壊れてしまった人よりも 残っている人のほうが辛い事もあるでしょう。
そういう経験もあるだけに 記憶障害の辛さも多少はわかるのです。
辛いだけ、苦ししいだけではなく 怖いですよ~。とっても。

幸いな事に、私はそのあたりの事も含めて多くの経験があることや
体の中を通るルートをうまく扱えるようにコントロールする術を少しは得ているので
もしかしたら、施術を通して 記憶障害などの後遺症へのお手伝いも
少しできるのではないかなと思っています。

特に、鍼は体の電気の通り道をコントロールする事が可能です。
物理的にも、マッサージや運動法を行う事でルートの再現に影響を与える事ができるでしょう。
また、経絡治療を行う事で 全体の様々な調整にも関与する事ができるのではないかと思っています。

人体は不思議なもので、通るルートを整えたり、導きを変えるだけで
まったく動かなかった所が動いたり
働かなかったところを働かす事ができたりする事があります。
なかなか見つけるのが大変な事も、スムーズに行かない事も多いのですが
そのお手伝いを少しする機会をいただけたらなーとテレビを見ながら思いました。

だって、自分がすごく辛かったんだもんな~。痛いんだよ。胸が。
何がわかってて何がわからないかわからないんだよ。
でも、わからん人には助けてもらえんじゃん?
助けの求め方もわからんしさ。いろいろすごく怖いしね。
ちょこっと当時を思い出して泣きました。
でも、それが今の施術者としての自分をつくっているからよし。
そう思っています。

少しでも、その経験を生かしてできる事があるのなら。
そして、望んでもらえたら。

自分にどれだけの力があるのかわかりませんが。
もし ご縁があってそういう機会があったらな
と思う放送でした・・・というお話。