治療という概念

みなさんは、お気づきでしょうか?
当サイトでは、治療という言葉を極力使わないようにしています。
あちこちで気軽に「治療」という言葉は使われて
それがあると「治せるんだ!」と思って人はとびつきます。

そもそも、人に体して「治療ができる」という言葉単独の場合
医師のみが使う事が可能である言葉となります。
この為、私たちが行うものに関しては
「鍼治療」、「灸治療」、「マッサージ治療」などと
必ず方法がつく言葉となって来る事でしょう。

しかし、よく考えて見ると「治療」とは
「治る(治す)為の療術を施す)」という意味でありますが
いずれをもって「治る」と言うのかは非常に難しいところです。

簡単に言うと、痛みが取れたり熱が下がったりなど
何らかの現象がおさまる事を「治る」といってしまいます。
しかし、それは本当の意味で「治っている」のでしょうか?

過去、治療に関係する事(人だけではなく動物や物も含む)に携わってきた人は
みんな素人で 何の知識も情報もなかったところで
いろいろと試し切磋琢磨してきた中から
ある形の変化が一定の法則や傾向を見つけ出す事に成功しました。

そして、その変化を 悪い方向から良い方向に向けるために様々方法や工夫を凝らしました。
その中で、一定の効果の見られる技術を「治療」として伝えていると思われます。

世の中には、沢山の具合が悪い人が現れます。
もともと、自分や周りの人が調子が悪かったりして技術を経たものや
何らかの才能があって技術を培えたものだけが知っていたのでは
あちこちの苦しんでいる人を助ける事はできません。

この為、自分の知っている事が苦しんでいる人たちの為になるように
全く何も知らない人に技術を伝える必要がありました。

それは、技術や知識のある人の良心が愛情と共に伝えられて来たに他なりません。
しかし、今の社会では 職業として選択される事が多くなってしまいました。
具合が悪くなった事がなかったり、人にたいして愛情を感じない人でも
お金や学校、記憶力などがあれば療術をある程度覚える事ができるようになりました。

ここで一つとても重要なキーワードがあります。
「覚える事ができるようになった。」

現在ある様々な療術は、過去の先人たちの莫大な興味や研究、工夫、
必要性、失敗と犠牲者の上に成り立ったものです。
本や人伝えの数年の詰め込まれた記憶だけで「治療ができる」と言えるのは
それだけ 先人たちが犠牲や苦労を払って培って伝えてくれた事があるからです。
その人の力ではなく、体がそのようになる一定の法則を
教えてもらっているからできることであり理解している人ばかりではありません。
ほとんどが理解できていないと言ってもよいかもしれません。

なまじっか、答えを教えてもらうことで 簡潔にどのような人でも「良い状態」に向けられてしまう事が
「治療」という言葉に対して 深く考える必要を奪っているとも言えるかもしれません。

例えば、鍼灸治療に関してですが
おそらくこれも何もない時から何らかの必要性があり、
何らかの発見をした事で培われてきたものだと思います。

幸か不幸か、私はどちらかというと そちらよりの人間で 小さい時から自分の体を自分でなでたり
さすったり叩いたりしながら 自分でこちらを叩くとこちらが痛いのがなくなるなぁと言うように
対処をしてきました。

また、足をぶつけたときや ある体の場所に刺激が加わると
違うところに痛みが伝わったりする事や 変化が現れる事を知
 自分で爪楊枝などを使って刺激の伝わり方を試したりしてきました。

成長すると共に、様々な事情があり具合が悪くなっていく中で
多くの医者にも通いましたが、普通の医者が言うことは
型にはめたように同じで、出す薬も同じで、
それがあわなくてさらに酷くなったりもしました。
心も置いてけぼりでした。

自分が医学の知識がなく お医者さんに行けば
何とかしてもらえるかもしれないと
どこかに何かが分かる人がいるかもしれないと
必死になってあちこちにいき、検査もいろいろとしました。

今のように、どこにでもある程度の検査器具や設備もないですし、
インターネットもなく、子供ですので何のコネもツテもなく、
お金もない中で 必死で持たせて来れたのは
結局、自分が小さい頃からしていた自分なりの施術があったからでした。

そして、自分が苦しい中 自分の体がどのような状態であるのかを理解する為に
自分の体の状態を見、脈を取り、
毎日の生活の中で尿や便を見たり、顔を見たりして
何とかして自分の状態を把握して
何とかして良い状態にならないかと試行錯誤してきました。

それらは 入学後に読んだ鍼灸のバイブルと言われる
太古の書物にも書いてあったので
「人間っていう生き物は大昔から変わらないのだなぁ」と
誰も分かってくれなかった自分と同じような人が居た事を嬉しく思いました。

何十年がすぎ、自分自身に対しての理解ができた事や
時代と共に少しだけ対処ができる病院が現れ
苦労の甲斐あってそういう機関を探す事ができ 少し落ち着いた事や
これまでの自分の経験を生かすためには、
西洋医学ではなく東洋医学だろうと考え
やっと心身的にも学校に行く事ができるようになったので
鍼灸・あんまマッサージ指圧師の専門学校に
必死になって入学しました。

脈を取ってきた経緯から、脈診ができるようになりたかった事もありました。
なぜ、どこでいつ脈診という言葉を知ったのかも自分では覚えていません。

きっかけは、不整脈やパニック症状への対処として
自分がどのような状態なのかを把握しなければならなかった経験からでした。
それこそ、自分としては生きるか死ぬかの状況でとった 苦肉の策でした。

入学したての時に ある経絡治療の団体の学校での勉強会に参加しました。
私のように、あちらからこちらへ通じているのがわかる人間の事を
東洋医学的な体質のでは「経絡体質」と言うようなのですが
勉強会ですので被験者に施術をし経絡治療の流れを体験する事になりました。

そのときに、たまたま2つの相反する証に対しての
鍼治療を受けた後(鍼を当てただけの治療方法です。)
体中が大きな電気で感電したぐらいの衝撃が走り
体じゅうの感覚がバラバラになる痛みを覚え
家まで這うようにして帰りました。

家に帰ってから 体中のばらばらになった中に走っている
電気のような痛みを順番にたどってみました。

小さい頃に あちらをつつくとこちらが痛いというときにどこを走っているのかを
知覚するようにしていたので 通るルートはすぐに分かりました。

一年生ですし、東洋医学や鍼灸治療を知っていて入学したのではなく 
あん摩マッサージ指圧師の免許が欲しくて入ったので 特に予備知識も入れていませんでした。

ですが、拾ったルートを経絡の本をみて照らし合わせて見たら
いろんな経絡があるのですが 各ルートすべて 教科書に書いてあるルートが
大きな流れのルートである事は確認できました。(他にもいっぱいあるのですけれど。)

もちろん、厳密に言うと もっといろんなルートがあり
状態の変化によって本当に複雑で
いろんな組み合わせがある事は確かなのですが
この大まかであるルートが肉体にあり、
それを本として再現できているのは
おそらく、過去に同じような感覚を持つ事ができていた人たちの
努力や協力、それを研究し、治療する側の創意工夫があったからこそです。

私のように、自分で見つけて自分で興味や必要性から工夫をして
自分で体験して来た人と、 本や人づてで覚えた人には おそらく大きな開きがあります。

これは、どちらがいいと言うわけではなく
体験していないから迷わないこともあれば、
体験していないから分からないこともあると言うしかありません。

ただ、どんなことでも同じですが
体験した事がある人が伝える事と体験した事のない人が伝えるのでは
同じ伝えることでも違う伝わり方をすることでしょう。

昔の鍼灸の伝承は、現在のように学校にいって勉強するスタイルではなく 
鍼灸術ができる人の元に弟子が入り伝承されてきているので
現在のように西洋医学や衛生に関して一通り
バランスの取れた知識が満遍なく伝わっていない一方で、
実際の臨床が目の前にある状態で学ぶわけですから
伝えるほうも伝えられるほうも
実際の現場だから得られる心や学びがあったと思います。

しかし、今 学校で教えているのは 西洋、東洋に関わらず
臨床現場ではない座学であり 
座学を教えている人がどのように学んで教えているのかすら
分からない状態で学びます。

本に書いてある治療をしてみたら痛みが止まったから治った。
その経験で 私は治せると思っている人も数多く居ることでしょう。

知識を、現象として再現化できる事は 治療を行う上でとても大切なことです。
ただ、それがなぜ どうして、どのように起こってきたのか、
どのようにすると状態がよくなり、「どのようになると治ったといえるのか」
これは、とても大切な事なのではないのかと思うのです。

例ば、「痛みがなくなったから治った」

痛みがなくなったということは、異常個所の異常を解消できたと
捕らえる事ができるという風に考えられます。

日常の生活の中で 生活をしながら回復させるという概念にしたがって薬を飲んだりします。

しかし、異常を感知させる物質をなくしてしまっているだけというのも治療に入ってしまいます。

また、一時的に回復させているだけで長期にわたっての他の場所への負担は考えていなかったり
その場所を無理に回復させることで他の場所に負担がかかったりする事までを考えていくと
不快な現象を一時的に解消しただけで 「本当の治療」と言えるのだろうかと私は思ってしまいます。

ただ、日常生活や大きな痛みでストレスを感じて
体が再生するのに大きな負担がかかっっている場合は、
必要な分だけ取り除く必要もあります。
また、働きは正常であるけれども 痛みの信号が誤作動しているような場合も
ご認知として取り除いたり 緩和する事は意義のあることだと思います。

そんな訳で、私は 「治療」というとても大きく、深く、大切な事を大事に考えて
自分なりの理解と見解がもてるまで できるだけつかわないでいようと思っています。

自分の位置づけをこれまで「治療家」と考えていましたが
本当に治療するのは体自身なので
体がうまく自らを治療できるようにサポートを促す
「療術家」が 自分の正しい立ち位置なのではないかと
最近、考えています。

西洋医学は、本来大切な予防医学がなおざりにされている事もありますが
何か体に「異常」が現れて その「異常」が一定の型にはまっていなければ
「治療」する事が難しい為に 今の世の中で対処のできない人が沢山います。
それに対しては、医師の中に苦痛を感じている方も多くおられます。

東洋医学も最近は、先ほどお話したように
「型にはまった治療」を行う事も可能になってきていますが
私は、「型にはまっていてもいなくても体の声を聞いてあげたい」と思っています。

ですので、大きく型にはまっている「異常」があろうとなかろうと
西洋医学の基礎的な事から通常では考えられないことまで
自分が自ら学んで それを先人たちが残してきた文献などと
照らし合わせたり確認しながら これまでの経験で考えたり見つけたりした事や、
その方の体の声を聞くことによって 体からの訴えや教えてもらった事を
サポートする事が私の仕事であろうと思っています。

私のしている事、目指している事は、「異常」 だけに対処するのではなく、
「異常」に対処しながら「異常の起こってしまった原因や理由」を発見、理解し、
「異常」をどのような形で回復させる事が「異常でない部分」にとっても
この先よい形になるのかを考えて行う
いうなれば総合治療であり、総合予防であり、総合理解です。

範囲や深さは違いますが 簡易施術でも、一般施術でも これは基本になります。

総合施術の場合は さらに深いものになります。
そして、その手段に 東洋医学、鍼、灸、手技という「三療術」や
これまで得てきた
多くの知識や技術を使って対応していきます。

ですから、「ご自分が感じる特別な異常」がなくても
なんとなく来て頂ければいいなと思います。

「なんとなく行ってみよう」と思った時点で 普段とは違う流れがあるからそう思うので
そういうときに対処するのが一番良いと 私は思っています。

正直な話し、異常が起こって居ないときの施術は
変化をしていてもあまり体感できない事が多いのです。
それは、「それぐらい変化が少ない間に対応できた」証です。

しかし、せっかく施術を受けて頂くので 何の変化もわからなければ
受けられている方も思うところがおありかと思います。

ですので、当店では 施術を始める前に 一緒にお顔を見て頂いたりして
ご自分の変化を把握して頂くことで お体の声を聞いて頂くようにしています。

健康は、お金では買えません。
体の中の小さな不健康が固まりになって 「病気と言う異常」に変化してしまう前に
「保健(健康を保つ)」手段を取る事が 体の部品を必要以上に壊さないことになります。

ちょっとでも いい形で体がご飯を食べられたり、眠れたり、楽しめたり、喜んだりできるように
お手伝いさせていただければ嬉しいです。